在日中国人女性の随筆  
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雪中探孙
「神戸大家庭」というと内海先生のことを言わなければならない。内海先生は福田先生の大学の後輩で、福田先生がチームを引率して海外で登山や探検をする際の秘書長でもある。「神戸大家庭」においては留学生たちの母親の役割を担っている。二年前に書いた内海先生についてのエッセイを下記で紹介する。
说到“神户大家庭”还必须提到内海先生。她是福田先生大学的后辈,也是福田先生常年来带队出征海外登山、探险时的秘书长,而在“神户大家庭”里她扮演的是留学生母亲的角色。下面是我两年前写的一篇关于内海先生的短文。

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私たちの大家庭は本当に賑やかで、福田先生は絶えずに中国から弟や妹を連れてくる。そしてその弟や妹たちもまた彼や彼女のパートナーを連れて来たり見つけてきたりする。時間の移り変わりに伴い、その可愛い次の代もまた誕生、そして次から次へ。福田先生と内海先生は私たちの面倒だけではなく、さらに私たちの次の代を自分の孫と孫娘として可愛がってくれた。
我们的大家庭真的很热闹,福田先生不断地从中国带来弟弟妹妹,弟弟妹妹还会带来或找到他(她)们的另一半。随着时间的推移又诞生了可爱的下一代,而且是一个接着一个。福田先生与内海先生,不仅照顾了我们,更把我们的下一代视作他们的孙子孙女一般。

ある年、内海先生は出版のことで東京に来た。用を済ませると我が家に泊まりに来てくれた。翌日神戸に戻る前に陳君と立新さんのところへ生まれたばかりの赤ちゃんに会いに行くと計画していた。しかし、翌日起きてみると天地を覆い隠すような大雪であった。これは珍しいほどの大雪で、やみそうにもないようだ。我が家は神奈川県にあるが、千葉県にある陳君と立新さんの家に行くには東京都を横切らなければならない。こんな大雪なのに…
那年内海先生为了出版的事情来到东京,办完事当天住在我家。第二天计划返回神户前去陈君与立新那里看望他们刚生的宝宝。可是,第二天起来一看,大雪下得铺天盖地。这是一场罕见的大雪,根本没有停下来的意思。我家在神奈川县,陈君与立新的家在千叶县,需要穿过东京都,这么大的雪……

しかし、内海先生はこの大家庭の新しい孫に会いに行きたい一心だった。仕方がなく私と主人は除雪のために庭に出た。車のタイヤが大雪に埋もれて姿が全然見えなくなる光景はなんて今まで見たことがなかった。私たちはタイヤのために雪の中に大通りにつながる溝を二本掘り出して、雪が舞う中私たちは出発した。途中で走っている車を見ることもなかったし、歩いている人も見かけなかった。車は大きな駅に着き、私は内海先生を支えながら深い雪の中に足を踏み込んでは抜き出し、ゆっくりと歩きながら駅へ近づいて行った。内海先生の足が弱いのは知っている。そしてこんなに多くの荷物も持っている、すでに70あまりの高齢なのに。私は本当に感動して、思わず先生を見た。私に見えたのは間もなく孫に会えるおばあちゃんの満面の微笑みと喜び。帰宅途中に主人と感心した。例え自分の本当の孫だったとしてもお婆ちゃんはみんなここまでできるのかしら。
可是,内海先生就是一心要去看这个大家庭的新孙子。无奈,我与老公先去院里除雪,从来没见过大雪会把车轮埋没。我们给车轮一直挖出两条可以通往大道的雪沟,顶着纷飞的雪花我们上路了。一路上没见到行车,也没见到行人。汽车开到一个大的电车站,我搀扶着内海先生在深雪中跋涉着走近车站。我知道内海先生腿不好,还背着这么多行李,再说都70多岁的老人家了。我真的很感动,不由得看了她一眼,我看到的是马上就要见到孙子的老奶奶的满脸喜悦与兴奋。回家的路上我与老公感慨,就是自己的亲孙子奶奶也未必都能这样。

今、私たち大家庭の孫たちが立って並んだらすでに長い列にもなり、大きい孫はすでに20歳を過ぎた。この子たちはみんな神戸大家庭のおじいちゃんおばあちゃんの保護と愛情をたっぷりと受け取った。彼(彼女)たちもきっと神戸に自分の大好きなおじいちゃんとおばあちゃんがいることを忘れることができないだろう。如今,我们大家庭的孙子辈站出来能有一排,大的都20多岁了。他们个个都承受了神户大家庭爷爷奶奶的呵护与关爱,他们也不会忘记在日本的神户有自己的喜爱的爷爷与奶奶。

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内海先生が出版した『万里長城 6000km、世界初踏察記』
内海先生出版的《万里长城 6000km、世界首次勘察记》
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9年間をかけ、6000kmの終点山海関に到着際 孫たちも迎えに来た。
历时9年,到达6000km的终点山海关时,孙子们也来迎接。


2009年7月10日金曜日
2009年7月10日星期五
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by tubomim | 2011-05-14 22:54 | 2011年
時計(时钟)
私たち、海外からの留学生のほとんどはこのようにお世話になって、今に至るまで交友が続いている日本の古い友達が数名いる。神戸にご在住の福田先生も、このような熱心に中国からの留学生のお世話をしてくれるおじいさんの一人で、今までに中国から30名以上の留学生を中国から招き、彼らやその家族、保証人で一つの「神戸大家庭」を築き上げた。下の文章は私が二年前に書いた福田先生に関する文章である。
我们每位外国留学生,大概都有几位这样受过关照,并交往至今的日本老朋友。神户的福田先生就是一位热心照顾中国留学生的老人,他曾经从中国办来了30多位留学生,并将这些孩子、孩子的家属及保证人组成了一个“神户大家庭”。下面是我两年前写的一篇关于福田先生的短文。
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「神戸大家庭」の中では、もしかしたら私と福田先生が最初に知り合ったのかもしれない。あれは1987年のことであった。京都でのある日本・中国・ネパールの三国連合隊によるエベレスト登頂の協商会議に、私は通訳として参加した。あの会議に参加していた人はとても多く、私は実際には誰が誰だか全く覚えていない。
“神户大家庭”里可能我与福田先生认识的最早。那是1987年在京都一次中日尼三国联合攀登珠穆朗玛峰的协商会议上,我应邀去作翻译。参加那次活动的人很多,我实际上根本记不清哪位是哪位。

会議が終わった後、私は東京の「四畳半」に戻って留学生活を続けた。ある日、神戸からの手紙を受け取った。手紙のほかに、何列かに並んで一緒に撮った集合写真もあった。写真の裏側には、一人の輪郭が線で示されていた。「これが私です。私は福田といいます。」私が再度表を見てみると、ひとりの目を細めて微笑んでいる方がいた。これ以降、私は福田先生から長女と称され、中国から途切れることなく私のために弟や妹を連れてきてくれて、私たちの「神戸大家庭」をにぎやかなものにした。
活动结束后,我回到了东京我的“四叠半”继续我的留学生活。一天收到了一封来自神户的信,除了信件还有一张几排人站在一起的集体照。照片背面用线条勾画出了一个人的轮廓,“这就是我,我叫福田”我再翻过正面一看,一位眯眼微笑的长者。从此我就被福田先生称作长女,他不断地从中国为我领来弟弟妹妹,使我们的“神户大家庭”热闹非凡。

私は多くの兄弟姉妹と同じく、福田先生から数多くのプレゼントをお贈りしていただいた。そのうちの一つがこの時計であり、すでに23年が経った。当時の私の「四畳半」にはテレビがなく、私は隣の部屋のテレビを聞くことで、毎日情報を手に入れていた。福田先生がくれたこの時計にはラジオ機能がついており、ニュースを聞くことができるようになった上に、もっと大きかったことは私の「四畳半」に音があるようになったことであった。毎朝のアラームは天気予報にセットし、また、私はこの中から「こようほう しっきゃく」という言葉を聞き取ったこともあった。「こようほう」は胡耀邦、「しっきゃく」は… 何?失脚?私はなんとこの小さな時計から中国国内の政局に重大な変化が生じたこともチャッチしたのであった。夜に時計を見やすいように、時計の文字盤には小さなランプが内蔵されていて、夜にはよく時計を持ち上げて懐中電灯として使っていた。
我与众多的兄弟姐妹一样,得到过福田先生赠送的很多礼物。其中一个就是这个时钟,至今已经23年了。当时我的“四叠半”里没有电视,我每天靠听隔壁的电视获取信息。福田先生送给我的这个时钟上面带有收音机功能,不仅可以听新闻等,更主要的是我的“四叠半”里有了声音。每天早晨的叫醒我设定为天气预报,我还在里面听出了“こようほう しっきゃく”こようほうは胡耀邦、しっきゃくは……何?失脚?我居然还通过这个小小时钟了解到国内政局出现了很大的变化。为了夜晚看钟方便,时钟的针盘里还有一个小小的灯泡,我常常起夜时举着它当手电。

この後、私はおよそ5回も引っ越したが、毎回この時計を持って移って行った。生活条件の改善に伴い、時計も時間を示す作用しか発揮しなくなった。息子は中学生になって以降、毎朝5:30には起床しなければならず、時間になったらきちんと起きられるように我が家の目覚まし時計はすべて息子の部屋に集結している。この時計はその中で先陣を切り、毎日時間になるとまるで一人の忠実な老兵かのごとく鳴っている。
此后我大约搬过5次家,但我每次都带着它。伴随我生活条件的改进,时钟就只发挥着显示时间的作用。儿子上中学后每天要清晨5:30起床,为了保证到点就起,我家所有的闹钟都集合到儿子的房间。这个时钟首当其冲排在第一个,每天到点就响,如同一名忠实的老兵。
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おおよそ二年前の夕方に東京は突如停電した。私が東京に来て二十数年経ったが、今回初めて出くわした。急いで、習慣的にテレビをつけて、どうして停電したのか見ようとしたが、テレビから反応はなかった。は~、停電しているのに付くわけがないか。少し待とう、しばらくすればまた電気は来るだろう。ところが、空が徐々に暗くなっていっても、一向に電気が復旧する気配はない。私も蝋燭や懐中電灯を探してみるものの、残念ながら我が家では昔からそのような準備なんてしてこなかった。その「万が一」によりによって自分が遭遇することもないだろうとずっと思ってきたのだから。買いに行こうにも外の街路灯もついていない。
大概两年前的傍晚,东京突然停电,这是我来东京20多年来第一碰到。赶紧习惯地打开电视看看为什么停电,电视没反应。咳,停电哪能有反应。等等吧,一会儿就会来,可是天渐渐黑了也不见来电。我开始寻找蜡烛、手电,可惜我家从来没有准备,老觉得那个“万一”不会让我遇到。出去买吧,外面路灯也黑着。

この時、私は突然、以前に懐中電灯としてこの時計を使っていたことを思い出した。何とか息子の部屋までたどり着き、老兵に引っ張ってきた。小さなボタンを押すと、20数年も使っていない小さなランプは、かつてのように輝き、あたり一面の暗闇の中ではむしろ目にまぶしいくらいであった。さらにうれしいことに、私は不意にあの20数年間も使わなかったラジオに触れ、音がでた。ラジオは私にアクシデントのために停電しており、ただいま緊急修理中で、現在どの地区ではすでに復旧した…等々を教えてくれた。この突然襲ってきた暗闇の中で時計は私に最も必要な明かりと情報をくれたのだ。
此刻,我突然想到了以前我当手电用过的这个时钟。摸到儿子屋子,拽过老兵。一按小钮,20多年没再用过的小灯泡依旧闪亮,甚至在一片黑暗中还显得有些耀眼。更可喜无意中我碰响了那个20多年未触摸过的收音机,它告诉我因为意外事故停电,正在抢修中,现在哪个区域已经恢复了等等。这个时钟给了我在这突然来临的黑暗中最需要的光亮与信息。

ここまで書いたら、私は今まで福田先生が私たちのためにしてくれたすべてのことを思い出した。これらの小さなことも、私たちが大事にすればそれは一生にわたっていいことをもたらしてくれる。特に困難に遭遇した時は。
写到这里,我不由得想起了福田先生为我们所作的一切。这点点滴滴,只要我们珍惜将会受益终生,特别是在遇到困难的时候。

あの時計もすでに黄ばみ出してはいるが、時間は決してずれない。まるで一名の現役の老兵がこれらの福田先生にまつわるすばらしい思い出を守ってくれているかのように。
那个时钟虽然已经有些变色发黄,但它分秒不差,就像一位现役的老兵,守护着这段关于福田先生的美好回忆。

2009年7月8日水曜日
2009年7月8日星期三
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by tubomim | 2011-05-14 22:39 | 2011年
今晩のテレビ番組
 今晩21:00~ フジテレビ 「泣きながら生きて」
 今晩の「泣きながら生きて」の内容はまだわかりませんが、1990年「我々の留学生活」が放送された際に書いた文章をUPさせていただきます。
        
「我々の留学生活」 《我们的留学生活》
 
 「我々の留学生活―日本での日々」が中国でまもなく放送されるという「大富新聞」の記事を目にし、早速、北京にいる両親に電話をした。そのことを話すと、父は「とうに知っているよ。私と母さんは放送を心待ちにしているよ。」と言った。両親の気持ちが私にはよくわかる。両親の娘が80年代半ば、いち早く留学の時流に乗り、日本に行ってしまった。その後の十数年間、毎日毎晩私のことを気にかけながら過ごしてきたのだ。電話口に出た母はせわしなく「あなたも出るの?」と聞いた。私は「出ないよ。でもすべてのものが留学生活の真実を記録したものだと聞いているから、そんなに変わらないと思うよ。ゆっくり見てごらん。」と言った。
   看到《大富报》介绍国内要播放《我们的留学生活——在日本的日子》,马上打电话告诉北京的父母。爸爸说:“早就知道了,我和你妈妈就等着看呢!”他们的心情我太能理解了。因为他们的女儿80年代中期随留学浪潮的前浪来到了日本。之后的这十几年他们就是在对我牵挂的日日夜夜中度过的。妈妈接过电话急着问:“里面有你吗?”“没有,但听说都是留学生活的真实纪录,大家都差不多,您就慢慢看吧!”

 その後、電話をかけると、まだ何も言わないうちから父が「みんな、毎日、あなたたちの留学生活を見ているのよ。北京にセンセーションを巻き起こし、人心を揺れ動かしている。母さんは毎日ハンカチを手にして見ているよ。」と言った。母は泣きながら「本当に感動したわ。あれに出ている人がみんな自分の子供のような気がしたわ。誰もみんな大変なのね。」と言うので、私は「母さん、我々は昔の苦しみを思っているわけではなく、今日の幸せを味わっているんだ。日本で得た物は我々にとって、それが最も大きなよりどころとなるものなんだ。いつになっても、誇りに思えるほどの武勇伝だよ。」と言った。すると母は「私はあなたたちのために心を痛めているわけではなくて、あなたたちの心に感動したのよ。」と言った。父は「お前たちが留学生活の中で学んだ能力は教室で学んだ知識よりきっと役に立つだろうと思うよ。」と言う。そこで私は「一生、役に立つよ。いずれにしても、留学したことは本当に後悔していないわ。」と言うと、母は言った。「もし張麗玲さんや横山さんたちに会う機会があれば、必ず私たち留学生を持つ親に代わってお礼を言っておいてね。彼らのおかげで私たちはあなたたちの留学生活や日本での生活を知ることができて、さらにまたたくさんのことを考えることができるようになったのだから。」
   再打电话回去,别的话还没说,爸爸就讲:“大家天天看你们的留学生活呢!轰动京城,震撼人心呀!你妈妈是天天拿着手帕看呢!”妈妈哭着说:“真感人呀!我看了哪个都觉得都象我的孩子。一个个多不容易!”我说:“妈妈,我们那不是在忆苦,是在思甜呢!那是我们在日本收获的最大资本,那是我们什么时候提起来都自豪的当年勇。”妈妈说:“我不是为你们悲伤,我是为你们的精神感动。”爸爸说:“我看你们留学生活中学到的本领可能比课堂上学到的知识受益更大。”我说:“终生受益,反正我是留学无悔,真的!”妈妈在电话里讲:“有机会见到张丽玲、横山他们,一定代我们这些留学生的家长谢谢他们,是他们使我们了解了你们的留学生活,同时也了解了你们生活的日本。使我们又思考了很多,很多。”

 私も日本に来てすでに十数年が経っている。番組の留学生たちが奮闘している時期には、私はすでに留学、就職、結婚などいう一連の長距離競走から、小休止できる緩衝地帯の段階までたどり着いていた。機材持ちでもかまわないのであるが制作グループの手助けができなかったことを本気で少し後悔している。正直にいうと、日本での十数年の生活を振り返ってみて、私が最も偲ぶべき、最も誇るべき、最も達成感があった時期は日本に来て留学を始めた頃の数年間であるのだ。我々の代わりにそれを記録してくれた制作グループに心から感謝したいと思うし、日本でも早く見られるようになることをさらに期待している。
   我已经来日十几年了,片子中的留学生在奋斗时我已从留学、就职、成家立业这一长跑跑道上下来,终于进入了缓冲、小憩的阶段。我真有点后悔没能去给剧组帮帮忙,哪怕是出力提提器材也好。真的,回顾这十几年的在日生活,最值得怀念、最值得骄傲、最有成就感的就是刚来时留学的那几年。在此衷心感谢剧组帮我们把她记录下来。更希望能早日在日本看到这部片子。

1999年12月3日
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by tubomim | 2006-11-03 18:30 | 1999年
苦学2(勤工俭学2)
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鸭子滑水,暗中使劲。
( 鸭子在水面上悠闲地、静悄悄地向前滑行,其实鸭掌在水下拼命地划呀划 ... )
 

 今スーパーやコンビ二及びファーストフードなどに入ると必ず活躍している外国人留学生の姿が目に映る。あのすがすがしい姿に脱帽、そして同時に私は心から応援をする。アルバイトを通じていろいろ勉強になったが、特に勉強になったのはお金がないことに困らない強さである。お金がなければ、働く。働いたらお金になる。いっぱい働いたら、お金がいっぱいになる。このような素朴で基本的なことがよくわかった。日本に来なかったら中国でとっくに安定している悠々な生活をしているはず。「日本に行って、何が得になったか」と聞かれると「自立、自分の力で働くこと。」「え?まだ働く?」「はい!まだ働ける。」と自信、自慢が思わずに溢れてくる。
  现在走进超市、便利店及快餐店,留学生活跃的身影就一定会映入眼帘。看着他们朝气蓬勃的身影表示敬佩的同时,真的我会从内心表示声援。通过打工我学习到很多,特别学习到的是不危惧缺钱的勇气。没钱就干,干了就有钱,干得多钱就多。明白了这样一个朴素而根本的道理。如果我没有来日本在中国可能早已过上了悠游自在的安定生活。当问道:“去日本你收获了什么?”时,我回答:“自立,靠自己的力量干活。”“啊?还干活呢?”“对!还能干。”不由得露出了自信与骄傲的表情。
  現在走進超市、便利店及速食店,留學生活躍的身影就一定會映入眼簾。看著他們朝氣蓬勃的身影表示敬佩的同時,真的我會從內心表示聲援。通過打工我學習到很多,特別學習到的是不危懼缺錢的勇氣。沒錢就幹,幹了就有錢,幹得多錢就多。明白了這樣一個樸素而根本的道理。如果我沒有來日本在中國可能早已過上了悠游自在的安定生活。當問道:“去日本你收獲了什麼?”時,我回答:“自立,靠自己的力量幹活。”“啊?還幹活呢?”“對!還能幹。”不由得露出了自信與驕傲的表情。

 日本語専攻出身だったので、その後、私は次々と中国語を教えたり、翻訳・通訳をしたりする仕事を見つけた。手帳には、私が日々東奔西走し、寸刻を惜しんで飛び回る姿が残されている。アルバイトの収入は当時の私の私費留学生活を支えてくれたが、それよりも重要なのはその体験がその後の私、今の私、これからの私をずっとずっと支えてくれるのである。
 アルバイトにありがとう。
  由于日语专业出身,后来我找到了教中文,作翻译的工作,效率手册上记载着我每天东奔西走,争分夺秒的穿梭身影。打工的收入支撑了我自费留学的生活,更重要的是这段经历一直支撑着那之后的我、现在的我以及将来的我。
  真要谢谢这段打工的经历!

  由於日語專業出身,後來我找到了教中文,作翻譯的工作,效率手冊上記載著我每天東奔西走,爭分奪秒的穿梭身影。打工的收入支撐了我自費留學的生活,更重要的是這段經曆一直支撐著那之後的我、現在的我以及將來的我。
  真要謝謝這段打工的經曆!

2000年1月17日
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by tubomim | 2006-04-12 19:15 | 2000年
苦学1(勤工俭学1)
 
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                 強く生きている彼岸花 
 
 1年間で70万円以上の費用をどこへ行って工面したらよいのだろう。ここでは親戚や友人をあてにすることはできない。自分でアルバイトをして工面するしかないのだ。当時、留学生は数少なく、社会もまだ開けておらず、情報化も進んでいなかったので、アルバイトを探すのは難しかった。雇う側は留学生を使いたがらなかったし、自分も授業の合間にしか働けなかったので、できることなら学校から家までの間が望ましかった。そうすれば、時間も交通費も節約できる。
  一年70多万日元,上哪儿去筹集呢?在这里是不会想到亲戚、朋友的,只有靠自己,打工去!那时留学生人数少,社会还不开放,信息也不灵通,打工的工作很难找。一方面人家不愿意要留学生,一方面自己只能在课余时间干,最好还能在学校和家的沿路上,这样既省时间又省路费。
  一年70多萬日元,上哪兒去籌集呢?在這裏是不會想到親戚、朋友的,只有靠自己,打工去!那時留學生人數少,社會還不開放,資訊也不靈通,打工的工作很難找。一方面人家不願意要留學生,一方面自己只能在課餘時間幹,最好還能在學校和家的沿路上,這樣既省時間又省路費。

 大多数の留学生が皿洗いを足がかりにスタートを切るのだ。彼らは、どれほど多い感動的な皿洗いマーチを心身で演奏していたのだろうか。洋食レストランで働く友人が、2週間中国へ帰国することで、やっとの思いで手に入れた仕事を失うことを心配していたため、私は2週間の肩代わりをするチャンスを手に入れることができた。
  大多数留学生都是靠刷碗起步的,他们演奏了多少可歌可泣的刷碗进行曲。朋友有一份西餐馆的工作,她回国两周怕因此丢掉这来之不易的工作,于是我便有机会顶替了两周。
  大多數留學生都是靠刷碗起步的,他們演奏了多少可歌可泣的刷碗進行曲。朋友有一份西餐館的工作,她回國兩周怕因此丟掉這來之不易的工作,於是我便有機會頂替了兩周。

 毎日、学校が引けて、店に駆けつけ帽子をかぶり、前掛けをして、店の裏のドアを押したその瞬間、私は刑場に行くような気持ちになった。足は鉛を注ぎ込まれたようで、本当に入りたくない。しかし、中に入ってしまうと、ねじを巻かれたように、飛び回った。というのは店の日本人店員がテーブルを片付け、丸めたナプキンを投げる時には、いつも本当に「ヒューッ」という音がしていたほど速かったのだ。仕事が引けると、体中が疲れきっていて、話をすることもできなくなってしまう。これでもある時、何度も繰り返し注文しているのに、私が要領を得なかったのに腹を立てた客が、ついに「君は500円の時給しかもらっていないのか。」と言われた。なぜなら当時の相場ではパートタイマーの時給は600円だったからだ。日本の洋食の呼び方は基本的に外来語であり、音だけを表して、意味は表さないので、慣れていないと憶えにくい。たとえば、ピザだけでも、焼き方、調味料などの違いによって何種類もの呼び方がある。あれからほぼ20年が過ぎて、まだ名前を言えないものもあるかもしれないが、洋食を注文する時には特にはっきりと言うように注意している。なぜなら私はあの「時給500円」のアルバイトの姿が忘れられないからだ。
  每天下学后,赶到店里戴好帽子,扎好围裙推开店门的那一刻,我就有赴刑场的感觉,腿像灌了铅似的,真不愿意进,可进去后就像上了弦似地飞转。真的!店里的日本人收拾餐桌扔脏纸团都带“嗖”的一声响。下班时整个一个筋疲力尽,话都说不出来。就这样还有一次因为客人点菜重复多次我也没弄明白,气得他最后说:“你是不是只拿500日元的小时工?”因为当时的行情小时工一小时工资600日元。日本的西餐基本上都是外来语只标音不表意,不熟悉很难记。如仅比萨饼一种根据烤法、佐料等的不同就有很多种叫法。20年过去了,虽然,可能还有叫不上名来的,但我点西餐时特别注意说清,因为我难忘那个500日元的小时工。
  每天下學後,趕到店裏戴好帽子,紮好圍裙推開店門的那一刻,我就有赴刑場的感覺,腿像灌了鉛似的,真不願意進,可進去後就像上了弦似地飛轉。真的!店裏的日本人收拾餐桌扔髒紙團都帶“嗖”的一聲響。下班時整個一個筋疲力盡,話都說不出來。就這樣還有一次因為客人點菜重複多次我也沒弄明白,氣得他最後說:“你是不是只拿500日元的小時工?”因為當時的行情小時工一小時工資600日元。日本的西餐基本上都是外來語只標音不表意,不熟悉很難記。如僅比薩餅一種根據烤法、佐料等的不同就有很多種叫法。20年過去了,雖然,可能還有叫不上名來的,但我點西餐時特別注意說清,因為我難忘那個500日元的小時工。
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by tubomim | 2006-04-10 16:06 | 2000年
大学院受験2(报考研究生院2)
 せっかく日本に留学にきた私は大学院の試験を受けることを断固として要求した。先生は「今年はもう間に合わないよ。一年準備して来年受けなさい。試験では学部で習う専門知識が出るのだから。」と言った。私は中国の大学の学部で日本語を専攻したが、日本に来れば、専門がなくなってしまい、ただのしゃべれる人にすぎない。そのうえ、その話だってまだままならないのだ。どうしたらよいのだろうか。学位が欲しければ、受験しなければならない。受験したければ、がんばらなくてはならない。ぐずぐずする時間がないのだ。そこで、先生に頼んで学内の書店に連れて行ってもらい、何冊か専門書を探した。私はこれらの本を抱えて、値段を見る暇もなく、やせがまんをして代金を払った。家に帰ると、専念するためにまず電話線を引き抜いて、中国で大学を受験した時のような根性を奮い起こし、たたみの上に座り、ふとんをかぶって、昼夜をいとわず一息に勉強にとりかかった昼と夜の区別もつかないほど勉強の虫になった。数日間、家を出ず、食べ物がなくなってからようやくしかたなしに餌を探しに出かけた。
  好不容易来到日本,我坚决要求参加研究生院的考试,老师说:“今年是来不及了,准备一年明年再考吧。因为考的都是本科专业知识。”我在中国的大学本科专业是日语,可到了日本就没了专业,只是一个会说话的人,而且还说得不好。怎么办?要学位就得考,要考就得拼,不能等!于是,请老师带我在校园书店里找了几本专业书,我抱着书顾不得看价钱就打肿脸充胖子般地去付了款。回到家为了专心读书先拔掉电话,拿出国内高考时的拼劲,坐在榻榻米上披着被子就不分昼夜地突击起来了。几天没出门,直到弹尽粮绝,才不得不出去寻口吃的。
  好不容易來到日本,我堅決要求參加研究生院的考試,老師說:“今年是來不及了,準備一年明年再考吧。因為考的都是本科專業知識。”我在中國的大學本科專業是日語,可到了日本就沒了專業,只是一個會說話的人,而且還說得不好。怎麼辦?要學位就得考,要考就得拼,不能等!於是,請老師帶我在校園書店裏找了幾本專業書,我抱著書顧不得看價錢就打腫臉充胖子般地去付了款。回到家為了專心讀書先拔掉電話,拿出國內高考時的拼勁,坐在榻榻米上披著被子就不分晝夜地突擊起來了。幾天沒出門,直到彈盡糧絕,才不得不出去尋口吃的。

 筆記試験と口頭試験が終わり、発表の日、私は一抹の不安を抱えて、人込みの後ろに立ち、首を伸ばして自分の名前を探していた。「ああ、あった!」真っ先に目に飛び込んできたのは、私の名前の前の「中国」の二文字だった。外国国籍の学生2名を含む合計9名が合格していた。それに私はそのうちで唯一の女学生でもあり、うれしくてしかたがなかった。合格者は互いに抱き合って飛び跳ねていた。私はといえば、知り合いは誰もいなかったが、私の心も喜びに脈打っているのを感じた。
  笔试、口试过后发榜那天,我揣着一颗不安的心,站在人群后伸长脖子找着自己的名字。啊!有了!最先映入眼帘的是在我名字前的“中国”两字。包括两名外籍学生一共录取了九名,我还是其中唯一的女生,心里别提多高兴了。合格者互相拥抱着、蹦跳着。我呢?谁也不认识,但我觉得我揣着的那颗心也在欢雀般地跳动。
  筆試、口試過後發榜那天,我揣著一顆不安的心,站在人群後伸長脖子找著自己的名字。啊!有了!最先映入眼簾的是在我名字前的“中國”兩字。包括兩名外籍學生一共錄取了九名,我還是其中唯一的女生,心裏別提多高興了。合格者互相擁抱著、蹦跳著。我呢?誰也不認識,但我覺得我揣著的那顆心也在歡雀般地跳動。

 帰宅の途中でスーパーに立ち寄り、実のところわずか10個ほどであったが、初めて包装した餃子を一皿買った。部屋に入って、なべを出し、来日して初めて火をたいて食事を作った。火を点けた瞬間、なぜかオリンピックの開幕式のように、とても厳かな感じがした。なんと日本の餃子は焼き餃子にすることしかできず、煮ることができなかったので、結局すいとんの様になってしまったが、あの味を私は終生忘れることはない。今になっても、あの味を思い出していつまでもかみしめることができる。
  回家路上在超市第一次买了一盘包好的饺子其实也就10个左右。进屋拿出锅,来日本后首次开火做饭。点火那一刻,不知为什么有点儿像奥运会开幕式似的,自己觉得还挺庄严。谁知日本的饺子只能做锅贴,不能用水煮,结果成了片汤,可那味道我终生难忘,至今回味无穷。
  回家路上在超市第一次買了一盤包好的餃子其實也就10個左右。進屋拿出鍋,來日本後首次開火做飯。點火那一刻,不知為什麼有點兒像奧運會開幕式似的,自己覺得還挺莊嚴。誰知日本的餃子只能做鍋貼,不能用水煮,結果成了片湯,可那味道我終生難忘,至今回味無窮。

  数日後待ちに待った大学院の入学通知書がアパートに届いた。続いて学費・雑費通知書が手元に届いき、中身を読んだら驚いた。一年間70万以上の費用はどうやって工夫工面したらよいのだろう......
  几天后终于盼来了入学通知。随后到手的是学杂费通知,打开一看,吓我一跳。一年70多万日圆,让我上哪里去筹集呢......
  几天後終于盼來了入學通知。隨後到手的是學雜費通知,打開一看,嚇我一跳。一年70多萬日圓,讓我上哪里去籌集呢......
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2000年1月17日
真一さんへ ご訂正ありがとうございました!
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by tubomim | 2006-04-04 06:44 | 2000年
大学院受験1(报考研究生院1)
 小さなアパートを整理し終わると、私は学校に通い始めた。出国手続きから出国後に住処を定めるまでの険しい障害を突き抜けて、私はついに学校に向かうことができるのだ。しかし第一歩を踏み出すや、私は沈んだ気分になった。理由は交通費!毎日、こうして一往復すると、毎月いくらかかるのだろう?!まあ、しばらく様子を見ることにしよう。
  安顿好了小家,我就开始上学。从办理出国手续,到出国后落脚,冲破了艰难险阻的我终于可以走向学校了。但刚迈出第一步我就觉得很沉重,原因是交通费!每天如此一个往返,每月需要多少钱呀?!……咳,走一步算一步吧
  安頓好了小家,我就開始上學。從辦理出國手續,到出國後落腳,衝破了艱難險阻的我終於可以走向學校了。但剛邁出第一步我就覺得很沉重,原因是交通費!每天如此一個往返,每月需要多少錢呀?!……咳,走一步算一步吧。

 私は大学院の研究生として留学した。半年後のある日、先生は、大学院生の入学試験で忙しいので、二週間自習するようにと私に言った。この時に、ようやく私は自分がなったこの研究生とは、研究を目的とするものであり、修士や博士の学位を授与されるものではないと知った(中国の研究生とは修士と博士のことをいう)。それでは困る。
  我是作为大学院(研究生院)的研究生来留学的。半年后的一天老师说让我自学两周,因为他忙于大学院生的入学考试。至此我才明白我读的这个研究生是以研究为目的的,并不授予硕士、博士学位。(中国所谓的研究生是指博士与硕士)那怎么行呢?
  我是作為大學院(研究生院)的研究生來留學的。半年後的一天老師說讓我自學兩周,因為他忙於大學院生的入學考試。至此我才明白我讀的這個研究生是以研究為目的的,並不授予碩士、博士學位。(中國所謂的研究生是指博士與碩士)那怎麼行呢?

 私は大学院の院生になるため日本に来たのだ。日本の進学率が厳しいとか受験地獄とかよく聞いていた。しかし当時、中国の大学に入るのも簡単ではなかった。私が高校を卒業した時、クラスの49人の中に私ともう一人の男の子だけ大学に入ったのである。あの時、一方では全国統一大学入学試験制度が復活したばかりで、一方では農村下放労働制度もまだ廃除しない頃であった。大学の入学通知書を手に握って、試験におちた仲間を農村まで見送りする時の私の気持ちは、どうも言葉では言い表せない。そのころ進学率が何パーセントだったかわからないが、目の前のみんなが分母になったことによって、私はやっとこの分子になったと感じた。
  我来日本就是为了大学院学位的。经常听说日本的升学率严格以及考试地狱等等。但当时在中国考大学也并不容易。在我高中毕业时,班里49人中只有我与另外一名男生考进了大学。那时一方面刚刚恢复了全国大学统一高考制度,另一方面上山下乡劳动的制度尚未废除。手里握着大学录取通知单去欢送考试落榜的同学们上山下乡时,我的心情简直无法用语言表达。我不知道那时的入学率是百分之多少,但我清楚地感到是由于眼前的他们作了分母,我才当了这个分子。
  我來日本就是為了大學院學位的。經常聽說日本的升學率嚴格以及考試地獄等等。但當時在中國考大學也並不容易。在我高中畢業時,班裏49人中只有我與另外一名男生考進了大學。那時一方面剛剛恢復了全國大學統一高考制度,另一方面上山下鄉勞動的制度尚未廢除。手裏握著大學錄取通知單去歡送考試落榜的同學們上山下鄉時,我的心情簡直無法用語言表達。我不知道那時的入學率是百分之多少,但我清楚地感到是由於眼前的他們作了分母,我才當了這個分子。
 
 大学に入るとびっくりした。クラスの中は大学が存在しなかった10年間に貯まった厖大な分母から厳選されたわずかな分子で、そして勉強することができない環境の中で勉強をしてきた優秀分子ばかりである。同級生と比べると年齢の差もあるし、レベルの差も痛感された。厳選された分子の中でさらに厳選されて大学院に行くのは当時、相当難しかった。確かにうちのクラスには一人もいけなかったみたい。
  进大学后我惊奇的发现,班里都是从没有大学的10年里积攒下来的庞大的分母中严格筛选出来的分子,而且净是在无法学习的环境中学习出来的优秀分子。与班里同学相比不光是年龄上的差距,让我更感到水平上的差距。从严选出来的分子中再进一步精选去读研究生,这在当时实在太难了,记得我们班上好像一个人都没考上。
  進大學後我驚奇的發現, 班裏都是從沒有大學的10年里積攢下來的龐大的分母中嚴格篩選出來的分子,而且淨是在無法學習的環境中學習出來的優秀分子。與班裏同學相比不光是年齡上的差距,讓我更感到水平上的差距。從嚴選出來的分子中再進一步精選去讀研究生,這在當時實在太難了,記得我們班上好像一個人都沒考上。
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人生は旅
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by tubomim | 2006-03-31 16:31 | 2000年
四畳半2(四叠半2)
 私はまず薄緑色のカーペットを買って来ると、黄ばんだ畳の上に敷いた。それから百円ショップ(北京の8元ショップにあたる)で買ってきた緑色のイミテーションのつる草を四方の古びた木枠にかけた。壁の上方には一幅の額をかけ、窓前には花をかざり、畳に体を伸ばして、気持ちよく京劇を口ずさんだりした。隣人がテレビを見ている時、私は彼のテレビを聴く。テレビのない私の部屋がいつかオリジナル・ヒアリング・ルームなるとは、思いもしなかった。500円で木製の小さな電気スタンドを買い、狭い部屋を明るくして、夢を充満させた。4日分のアルバイト料で小さな「多目的」冷蔵庫も買った。それはドアを閉めれば「冷蔵」、ドアを開ければ「冷房」になった。家の中のどの品物にも私の心血が詰まっていた。ここは私の自力更生の楽園となったのだ。
  我先买来一块浅绿色的地毯,铺在发黄的榻榻米上,又用100日元店(相当于北京的8元店)买来的绿色吊叶遮饰在四周发旧的木框上。上方挂了一块匾,窗前摆了一盆花,躺在地上歇口气,得意地哼出了京剧唱腔。隔壁看电视,我就听电视,没有电视的小屋倒成了独特的听力室。500日元换回一盏木制小台灯,照亮了小屋,充满了幻想。4天工挣来一只“多功能”的小冰箱,关起门它管“冷藏”,打开门它供“冷房(冷气)”。家里的每一件东西都凝结着我的心血,这里成了我自力更生的乐园。
  我先買來一塊淺綠色的地毯,鋪在發黃的榻榻米上,又用100日元店(相當於北京的8元店)買來的綠色吊葉遮飾在四周發舊的木框上。上方掛了一塊匾,窗前擺了一盆花,躺在地上歇口氣,得意地哼出了京劇唱腔。隔壁看電視,我就聽電視,沒有電視的小屋倒成了獨特的聽力室。500日元換回一盞木制小臺燈,照亮了小屋,充滿了幻想。4天工掙來一隻“多功能”的小冰箱,關起門它管“冷藏”,打開門它供“冷房(冷氣)”。家裏的每一件東西都凝結著我的心血,這裏成了我自力更生的樂園。
 
 私はここで大学院の論文を書き上げ、多くの人に中国語を教え、日中友好事業の橋渡しをし、「読売新聞」に連載する文章を書いた。ある日、読売新聞社の小旗を掲げた2台の取材の車がゆっくりと「下町」に入り、私の小さなぼろ「アパート」の前に止まった。パシャパシャと私の写真を撮った時、周囲の人たちはフラッシュにつられて、ようやく目をしばたたかせながら、私という「外人」に目を向けた。
  我在这里完成了研究生的论文、我在这里教会了很多日本人中文、我在这里为中日友好事业牵线搭桥、我在这里写出了连载日本《读卖新闻》的文章……当挂着读卖新闻报社小旗的两辆采访车,徐徐驶进小巷,停在我的小破楼前左拍右照时,周围人才随着闪光灯眨着眼看我这个“外人”。
  我在這裏完成了研究生的論文、我在這裏教會了很多日本人中文、我在這裏為中日友好事業牽線搭橋、我在這裏寫出了連載日本《讀賣新聞》的文章……當掛著讀賣新聞報社小旗的兩輛採訪車,徐徐駛進小巷,停在我的小破樓前左拍右照時,周圍人才隨著閃光燈眨著眼看我這個“外人”。

 その後14年の間に、私は引越しを何度も経験した。当然、回数を重ねるごとに、移り住む家は大きくなり高級になっていった。しかし、引越しをするごとに、私のあの「四畳半」への懐かしさは増していった。結婚した時、私は夫と一緒にわざわざあの場所に出かけて行った。両親が来日した時も、案内した。息子も大きくなって物心がついてから連れて行った。苦労を思い出すためでなく、当時の楽しみを噛みしめるためなのだ。不思議なことに、あの頃すでにぼろぼろだったアパートは、いまでも健在である。階段をのぼると、あの「ぎしぎし」という板のきしむ音がまた聞こえた。私は体中の血が、感覚を取り戻したように湧き返るのを感じた。時に悩み迷う日には、自分がかつてそこで築いた輝きを思い出す。
  14年间我经历了多次搬家,当然越搬越大越高级。可越搬越想我那“四叠半”。结婚时我曾和丈夫专程去过。父母来日时,我又陪他们去过。儿子长大懂事后,我也带他去过。我不是去忆苦,而是去思甜。奇怪的是当年已是风烛残年的它,却依然健在。踏上楼梯我又听到了那“吱吱”作响的木板声,我觉得身上的血在涌动,似乎又找到了感觉,终日彷徨的我会想起自己曾经在这里创造过辉煌。
  14年間我經歷了多次搬家,當然越搬越大越高級。可越搬越想我那“四疊半”。結婚時我曾和丈夫專程去過。父母來日時,我又陪他們去過。兒子長大懂事後,我也帶他去過。我不是去憶苦,而是去思甜。奇怪的是當年已是風燭殘年的它,卻依然健在。踏上樓梯我又聽到了那“吱吱”作響的木板聲,我覺得身上的血在湧動,似乎又找到了感覺,終日彷徨的我會想起自己曾經在這裏創造過輝煌。
      
 今や一戸建てを持つようになったが、それを自慢する気にはならず、常にあの「四畳半」での往年のほこりばかりを話したくなるのである。
  真的,如今我有了“独户小楼”却自豪不起来,偏偏爱提那“四叠半”里的当年勇。
  真的,如今我有了“獨戶小樓”卻自豪不起來,偏偏愛提那“四疊半”裏的當年勇。
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時の流れに


1999年12月10日
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by tubomim | 2006-03-29 14:08 | 1999年
四畳半1(四叠半1)
 
時刻は只今3月26日00:00分になりました。3月26日はなんの日?何の日でもありません。ただ単に20年前に私が日本に上陸した日なのです。ここで数年前に書いた来日当初の文章を載せさせていただきます。 

 日本の和室の大きさは一般的に畳の枚数で数える。「一枚」は日本語で「一畳」という。普通一番小さい部屋は「四畳半」で、約7㎡あまりあろう。「四畳半」なんと親しみ深い言葉だろう。それは、私たち多くの留学生の日本における出発点である。14年前、私は単身で東京にやって来た。とことん歩き疲れ、冷たい眼差しにさらされて、ようやく自分のものとなる四畳半を見つけた時、うれしさのあまり、私は北京の家族に電話をかけて大声で言った。「なんと日本にも私の場所があるのよ。たったの四畳半だけど、そこで自由気ままに大の字になって寝られるのよ。日本で最初の私の家になるのよ。」
  日本和式房子的大小,一般以榻榻米的张数计算。“一张”日语中称为“一叠”,一般最小的房子是“四叠半”约为7平米左右。“四叠半”多么亲切的字眼,它是我们大多数留日学生在日本的起跑点。14年前,我只身来到东京,当我踏破铁鞋,遭尽白眼,终于找到属于我的那个“四叠半”时,激动得我打电话大声告诉国内家人:“在日本国居然有块地方属于我,虽然它只有四叠半,但我可以在里面无拘无束,四仰八叉。它将是我在日本的第一个家。”
  日本和式房子的大小,一般以榻榻米的張數計算。“一張”日語中稱為“一疊” ,一般最小的房子是“四疊半”約為7平米左右。“四疊半”多麼親切的字眼,它是我們大多數留日學生在日本的起跑點。14年前,我隻身來到東京,當我踏破鐵鞋,遭盡白眼,終於找到屬於我的那個“四疊半”時,激動得我打電話大聲告訴國內家人:“在日本國居然有塊地方屬於我,雖然它只有四疊半,但我可以在裏面無拘無束,四仰八叉。它將是我在日本的第一個家。”

  私のその「家」は、東京の「下町」にある、(ちょうど北京の前門、菜市口近辺にあたるだろうか)余命幾ばくもない二階建ての小さいな「アパート」だった。私は、一階の一番奥に住んでいるのが大家さんだということだけは知っていた。なぜなら、毎月あそこへ家賃を渡さなければならなかったからだ。大家のおじいさんは毎回お金を受け取れるだけの隙間しかドアを開けなかった。私はいつもそれを見て日本国の門戸を思い浮かべた。このドアは「外人」とはどんなものなのかを私に物語っていた。日本人は普段、外国人を「外人」という。当時不動産屋の張り紙には「ペット」、「水商売」、「外人」不可と明確に書いてあった。今国情、相場も少し変わったようで、窓に今度は「ペット」、「水商売」、「外人」可と親切に書き換えてある。しかし態度が変わっても感情は変わってないことも見て取れる。
  我的这个家在东京都内的市井小巷(大概相当于我们北京过去的前门、菜市口一带),一座风烛残年的木板二层小楼。我只知道一层最里面住的是房东,因为我每月要把房钱交给他,他每次也就只开一个能够把钱收进去的门缝。我常常由此想到日本的国门,这个门告诉我什么是“外人”。日本人总爱把外国人叫做“外人”,那时房地产租赁公司的窗子上,都明确地写着“宠物”、“陪酒”、“外人”不可。现在国情、行情似乎都变了,窗子上又都热情地写着“宠物”、“陪酒”、“外人”可。不难看出态度变了那感情也难变。
  我的這個家在東京都內的市井小巷(大概相當於我們北京過去的前門、菜市口一帶),一座風燭殘年的木板二層小樓。我只知道一層最裏面住的是房東,因為我每月要把房錢交給他,他每次也就只開一個能夠把錢收進去的門縫。我常常由此想到日本的國門,這個門告訴我什麼是“外人”。日本人總愛把外國人叫做“外人”,那時房地產租賃公司的窗子上,都明確地寫著“寵物”、“陪酒”、“外人”不可。現在國情、行情似乎都變了,窗子上又都熱情地寫著“寵物”、“陪酒”、“外人”可。不難看出態度變了那感情也難變。

  当時アパートの住人は、私一人が「外人」だったし、私一人が女だった。たぶん出稼ぎの単身者が多かったのだろう。玄関に脱いである、踵を踏んづけた靴から判断できた。アパートにはお風呂もなかったし、トイレだって男女共用になっていた。長いこと、寝る時には、本箱をドアにあてがい、包丁を敷布団の下に潜ませていた。薄い木の扉のふちに細くて小さな鉄の棒を差し込んでひねるだけのものが錠前だなどと、どうしても信じられなかったのだ。まもなく、幸い、隣に人が引っ越して来た。毎晩聞こえてくる彼のイビキのおかげで、心強くなった。そのうち、私はそのイビキに慣れて「平安無事だよ…!」という拍子木のリズムとして聞くようになった。たまたまそのリズムが聞こえないと、どうしても「周辺有事」と感じてしまい、夜通し安心することができなかった。
  小破楼里只有我一个“外人”,也只有我一个女人。从楼门口脱下的那些踩倒后帮的鞋判断,大概住的是些临时进城打工的单身汉。楼里没有浴室,只有一个男女共用的厕所。很长一段时间我都是用书箱顶住门,褥子下放着菜刀睡的。因为我怎么也不相信薄薄的木门板边上插着的那个细细的小铁棍,就是铁将军(頑丈な錠前)。多亏隔壁搬来了邻居,他那每晚的鼾声给我壮了胆,后来我习惯把他的鼾声当成“平安无事喽!……”的梆子声。偶尔听不到梆子响,总觉 “周边有事”,彻夜不得安生。
  小破樓裏只有我一個“外人”,也只有我一個女人。從樓門口脫下的那些踩倒後幫的鞋判斷,大概住的是些臨時進城打工的單身漢。樓裏沒有浴室,只有一個男女共用的廁所。很長一段時間我都是用書箱頂住門,褥子下放著菜刀睡的。因为我怎么也不相信薄薄的木门板边上插着的那个细细的小铁棍,就是铁将军(頑丈な錠前)。多虧隔壁搬來了鄰居,他那每晚的鼾聲給我壯了膽,後來我習慣把他的鼾聲當成“平安無事嘍!……”的梆子聲。偶爾聽不到梆子響,總覺 “周邊有事”,徹夜不得安生。
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by tubomim | 2006-03-26 00:00 | 1999年