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カテゴリ:1999年( 9 )
今晩のテレビ番組
 今晩21:00~ フジテレビ 「泣きながら生きて」
 今晩の「泣きながら生きて」の内容はまだわかりませんが、1990年「我々の留学生活」が放送された際に書いた文章をUPさせていただきます。
        
「我々の留学生活」 《我们的留学生活》
 
 「我々の留学生活―日本での日々」が中国でまもなく放送されるという「大富新聞」の記事を目にし、早速、北京にいる両親に電話をした。そのことを話すと、父は「とうに知っているよ。私と母さんは放送を心待ちにしているよ。」と言った。両親の気持ちが私にはよくわかる。両親の娘が80年代半ば、いち早く留学の時流に乗り、日本に行ってしまった。その後の十数年間、毎日毎晩私のことを気にかけながら過ごしてきたのだ。電話口に出た母はせわしなく「あなたも出るの?」と聞いた。私は「出ないよ。でもすべてのものが留学生活の真実を記録したものだと聞いているから、そんなに変わらないと思うよ。ゆっくり見てごらん。」と言った。
   看到《大富报》介绍国内要播放《我们的留学生活——在日本的日子》,马上打电话告诉北京的父母。爸爸说:“早就知道了,我和你妈妈就等着看呢!”他们的心情我太能理解了。因为他们的女儿80年代中期随留学浪潮的前浪来到了日本。之后的这十几年他们就是在对我牵挂的日日夜夜中度过的。妈妈接过电话急着问:“里面有你吗?”“没有,但听说都是留学生活的真实纪录,大家都差不多,您就慢慢看吧!”

 その後、電話をかけると、まだ何も言わないうちから父が「みんな、毎日、あなたたちの留学生活を見ているのよ。北京にセンセーションを巻き起こし、人心を揺れ動かしている。母さんは毎日ハンカチを手にして見ているよ。」と言った。母は泣きながら「本当に感動したわ。あれに出ている人がみんな自分の子供のような気がしたわ。誰もみんな大変なのね。」と言うので、私は「母さん、我々は昔の苦しみを思っているわけではなく、今日の幸せを味わっているんだ。日本で得た物は我々にとって、それが最も大きなよりどころとなるものなんだ。いつになっても、誇りに思えるほどの武勇伝だよ。」と言った。すると母は「私はあなたたちのために心を痛めているわけではなくて、あなたたちの心に感動したのよ。」と言った。父は「お前たちが留学生活の中で学んだ能力は教室で学んだ知識よりきっと役に立つだろうと思うよ。」と言う。そこで私は「一生、役に立つよ。いずれにしても、留学したことは本当に後悔していないわ。」と言うと、母は言った。「もし張麗玲さんや横山さんたちに会う機会があれば、必ず私たち留学生を持つ親に代わってお礼を言っておいてね。彼らのおかげで私たちはあなたたちの留学生活や日本での生活を知ることができて、さらにまたたくさんのことを考えることができるようになったのだから。」
   再打电话回去,别的话还没说,爸爸就讲:“大家天天看你们的留学生活呢!轰动京城,震撼人心呀!你妈妈是天天拿着手帕看呢!”妈妈哭着说:“真感人呀!我看了哪个都觉得都象我的孩子。一个个多不容易!”我说:“妈妈,我们那不是在忆苦,是在思甜呢!那是我们在日本收获的最大资本,那是我们什么时候提起来都自豪的当年勇。”妈妈说:“我不是为你们悲伤,我是为你们的精神感动。”爸爸说:“我看你们留学生活中学到的本领可能比课堂上学到的知识受益更大。”我说:“终生受益,反正我是留学无悔,真的!”妈妈在电话里讲:“有机会见到张丽玲、横山他们,一定代我们这些留学生的家长谢谢他们,是他们使我们了解了你们的留学生活,同时也了解了你们生活的日本。使我们又思考了很多,很多。”

 私も日本に来てすでに十数年が経っている。番組の留学生たちが奮闘している時期には、私はすでに留学、就職、結婚などいう一連の長距離競走から、小休止できる緩衝地帯の段階までたどり着いていた。機材持ちでもかまわないのであるが制作グループの手助けができなかったことを本気で少し後悔している。正直にいうと、日本での十数年の生活を振り返ってみて、私が最も偲ぶべき、最も誇るべき、最も達成感があった時期は日本に来て留学を始めた頃の数年間であるのだ。我々の代わりにそれを記録してくれた制作グループに心から感謝したいと思うし、日本でも早く見られるようになることをさらに期待している。
   我已经来日十几年了,片子中的留学生在奋斗时我已从留学、就职、成家立业这一长跑跑道上下来,终于进入了缓冲、小憩的阶段。我真有点后悔没能去给剧组帮帮忙,哪怕是出力提提器材也好。真的,回顾这十几年的在日生活,最值得怀念、最值得骄傲、最有成就感的就是刚来时留学的那几年。在此衷心感谢剧组帮我们把她记录下来。更希望能早日在日本看到这部片子。

1999年12月3日
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by tubomim | 2006-11-03 18:30 | 1999年 | Comments(31)
浮き輪(救生圈)
 私は1人で息子と友人の娘を連れてスイミングセンターに泳ぎに行った。4歳の息子はもう何度も来たことがあったので、浮き輪の穴にもぐりこむと自動的に流れる水流に乗って水を得た魚のようにぷかぷかと流されていった。しかし、初めて来た友人の9歳の娘は、やっとのことで水の中に入ったが、私にしがみついて下りようとしない。ちょうどその時、息子が嬉しそうに手足をばたつかせながら水流に乗ってまた戻ってきた。ふと見ると、友人の娘は溺れる人がわらにもすがるように彼の浮き輪をぐいっとつかんだ。
 そこで、私は息子をプールサイドに待たせ、彼の浮き輪を無理やりお姉ちゃんにかぶせると、泳ぎながら押していった。ぐるりと1周泳いで戻って来ると、もう一周泳ぎたいと言う。2周泳いで戻って来ると、もう私が助ける必要はなかった。3周泳いで戻って来た彼女は、捕まえようと思っても捕まえられなかった。プールサイドにいた息子は待ちくたびれて、追いかけながら大声で叫び、館内の管理人を驚かせた。そこで、彼女はいやいやながら浮き輪を外して息子にかぶせた。私は息子の世話をしながら、真剣に彼女に泳ぎ方を教えざるを得なかった。
 初めのうちは、彼女は私の腕に掴まらなければならなかった。しかし、だんだんと私の手をつかませ、最後には形だけ指を1本さしのべてやった。私が絶えず励まして、手本を見せ、指導するうちに、彼女はついに自分から前に突き進むようになった。第一歩をやりとげれば、第二歩も‥。彼女はもうあの浮き輪に目をやらなかった。
 浮き輪は息子を乗せて、水面に安らかに漂っていた。帰り道、私は一方の手で、浮き輪がないので自分で5掻きか6掻き泳ぐことを覚えた友人の娘の手を引き、もう一方の手で、浮き輪を持っていたために浮かぶことしかできない息子の手を引いていた。私は思わずその浮き輪が少しばかり恨めしいと思った。
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  一个人带着儿子和朋友的女儿去游泳馆游泳。4岁的儿子因来过几次,钻进救生圈如鱼得水般地随着自动流动的水流漂走了。而朋友9岁的女儿是第一次来,好不容易下了水,缠在我身上就是不下来。就在这时儿子高兴地摇摆着手脚随着水流又漂回来了,只见朋友的女儿像发现救命稻草一样一把抓住他的救生圈。
  于是,让儿子在池边等着,把他的小救生圈勉强套在姐姐身上,我边游边推着她走。一圈游回来,她还要游一圈。两圈游回来,她再不用我了。三圈游回来,想抓也抓不住她了。儿子急得在池边边追边喊,惊动了馆内管理人员。于是,她很不情愿地退下救生圈给弟弟戴上。我只好一边照看儿子,一边认真地教她游泳。
  开始她非要抓住我的胳膊,渐渐让她抓住我的手,最后象征性地伸给她一个手指头。在我不断地鼓励、示范、诱导下,她终于自己向前扑去。有了第一步,就有第二步……她不再顾盼那个救生圈。
  救生圈载着儿子在水里无忧无虑地漂着。回来的路上我一手领着因为没有救生圈而学会自己游五、六步的朋友的女儿,一手领着因为有救生圈而只会漂的儿子。我不由得有点儿恨那个救生圈。


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 日本語学科を卒業してから日本に留学した私たちをみなはよく水を得た魚のようだと言う。でも実際は、考えてみると何だか浮き輪と同じように思える。それがあるから、波に身を任せて流れてゆける。もがき、戦い、勇敢に突き進む過程がなければ、一人で生き延び、困難を乗り越えて勇敢に邁進する情熱と勇気もなくなってしまう。
 昔の級友を見ると、あのころ「浮き輪」を身に着けて日本に乗り出したために、苦しみの中でもがくことは免れたかもしれないが、10数年がすぎても、まだ相変わらず中国語を教えたり、通訳をしたり‥。この浮き輪から勇気を持って飛び出して、独立して事業を興した者は少ない。日本に来た日本語学科の卒業生は数多いが、本当に水を得た魚のように、元気溌剌と、頭角を現す勇気を持てたものは多くはないようだ。
 今、新しく来る留学生は私たちの時代とはもう同じではない。私たちの時代は1銭銅貨を2つに折って使いたいと思うほど倹約したが、彼らは来日する時にもう数10万~数100万もの日本円を懐に忍ばせている。そして「両親が自分たちを日本にやるのは、勉強させるためであって、苦労をさせるためではない」と言う。お金があれば、彼(彼女)は苦労をしなくてすむかもしれないが、同時に、苦労の中から幸せを味わうこともできない。世間の人たちは、私たちが苦労の中からたくさんのものを得たことを知らないのかもしれない。私たちの世代の留学生を見ると、今、道を切り開いている者はみな自分の奮闘の歴史を持っている。家財を使い尽くして日本に来た者は、多かれ少なかれ中途半端である。
  大家常把我们这些日语专业毕业后来日本留学的人称之为如鱼得水。其实想想也有些救生圈的感觉。因为有了它,就能随波逐流。缺少挣扎、拼搏、勇进的过程,也就没有了独立求生、劈波斩浪、勇往直前的激情和勇气。
  看看昔日的老同学,由于当年套着“救生圈”下东洋,可能免去了水深火热中的挣扎,然而十几年过来了,还一直是教教中文、作作翻译……敢于冲出这个圈,独立创业的少。日语专业毕业后来日本的为数不少,可真的如鱼得水、欢蹦乱跳、敢跃龙门的好象为数不多。
  现在新来的留学生和我们那时已不同了。我们那时恨不得一分钱掰成两半花。他们来时就揣着几十万~几百万日元,声称:“父母就是让我们来读书,不是来受苦的。”钱也许使他(她)免去了吃苦,同时也就尝不到苦中甜。世人也许不知我们苦中受益匪浅。看看我们这一代留学生,凡如今闯出自己一条路者,必有他的奋斗史。倾家荡产供其来日者,又有多少不了了之。


 実際、何事につけても、そういうものではないだろうか。浮き輪を身に着けて泳げば溺れ死ぬことは当然少ないだろうが、浮き輪を着けて水泳大会で優勝を勝ち取った者は一人もいないし、競技に出場する資格さえない。
 年末に駅前の体育館に冬季水泳短期コースが設けられ、私は息子のために申し込みをした。たった4回の訓練だったが、浮き輪をやめる勇気を持つことができた。数日前、私たちと幼稚園のお友達とそのお母さんとで、またあのスイミングセンターに泳ぎに行った。息子は、今回は自分から浮き輪をお友達に譲り、私に自分を支えさせて泳いだ。泳ぐほどに大胆になり、最後には爪先立って首を伸ばし、顔を上に向けてどうにか水面から出そうとして、私の手を振り払った。そして、一歩一歩と前に進もうとして、嬉しそうに叫んだ。「ママ、ほら早く見て。大人と同じだよ。浮き輪がなくても自分で歩けるよ!」ふと見ると息子は小さな勇者のように一歩一歩と前進していた。出てきた時、息子は言った。「この浮き輪はもういらない。お友達にあげるよ」。しきりにお礼を言うお友達のお母さんに、私は慌てて言った。「お宅の坊やに早く泳ぎを覚えさせたいなら、浮き輪をあまり使わないほうがよいですよ」。
  其实万事又何尝不是如此?套着救生圈游泳淹死的固然少,可套着救生圈夺得游泳冠军的一个也没有,甚至都没有参加比赛的资格!
  年底车站前体育馆举行冬季游泳短训班,我给儿子报了名。虽然只有4次,却训练出了扔掉救生圈的勇气。前几天,我们和幼儿园的小朋友及小朋友的妈妈又去那个游泳馆游泳。儿子这次主动把救生圈让给小朋友,让我扶着他游,越游越胆大,最后试着踮着脚尖,伸长脖子,把脸仰起将能露出水面,就甩开我的手,一步一步地试着往前走,并高兴地大喊:“妈妈,你快看我和大人一样了,不用救生圈也能自己走啦!”只见儿子小勇士般地一步一步地向前走去。出来时,儿子说:“这个救生圈不要了,送给小朋友吧。”小朋友的妈妈直道谢。我忙说:“要想让你儿子早日学会游泳,最好少用救生圈。”

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1999年2月15日
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by tubomim | 2006-06-12 21:38 | 1999年 | Comments(26)
セールス3(推销3)
 部長にレースを重点的にセールスするように言われた私は東京中レースの店を探し回った。そしてついに「レース」という文字の看板を見つけると、目を輝かせて飛び込んで行くほど夢中だった。当然、十中八九は追い払われたが、そのたびごとに、ますます強情になり、なんとしても飛び込んで行かずにはいられなかった。
  部长让我重点推销抽纱,于是我就满东京的找抽纱店,最后找得我看见“レース(抽纱)”两字的牌子就眼亮,就要往里闯。当然十有八九被轰出来,但越轰越倔强,非要往里闯。
  部长让我重点推销抽纱,于是我就满东京的找抽纱店,最后找得我看见“レース(抽纱)”两字的牌子就眼亮,就要往里闯。當然十有八九被轟出來,但越轟越倔強,非要往裏闖。

 最初の日に追い払われた店に、翌日また出かけて行き、「私は昨日追い払われたものです。会社にレースのセールスをするように言われましたが、私はそれについてよく知らないし、日本語も上手に話せないので、教えていただけませんか」と説明した。私はここで「謙虚」という技を出した。「謙虚さによって人は進歩する」(小さい頃よく暗記された毛澤東語録)という通り、私はついに一歩前へ進んだ。今回は、私は応接間のソファーに通された。彼らは私が持って行ったサンプルの欠点を指摘し、私の発音を直し、レース業界の市況について教えてくれた。彼らは得意になって先生を務め、私は学生として謙虚に耳を傾けた。その後もまた私は次々と他の会社の門をたたいては開けていった。後に、彼らは私の一番の顧客となり、私たちは何度も一緒に中国に出張に出かけ、まっさきに中国からコンテナ単位のレースの反物を試験的に輸入した。
  头一天轰出来,第二天我又去,说明我就是昨天被轰出去的那个,公司让我来推销抽纱品,可我既不懂专业,又讲不好日语,能不能给我指点指点。这里我使用了“虚心”这块敲门砖,“虚心使人进步”我终于进了一步,这次坐到了会客室的沙发上。他们指出我的样品的不足,纠正了我的发音,介绍了抽纱业的行情。他们得意地当了一回老师,我虚心地做了一回学生。也由此陆续敲开了其他抽纱公司的门。他们后来成了我的最大客户,我们一起多次去中国出差,率先尝试着整集装箱地从中国进口成匹抽纱花边布。
  頭一天轟出來,第二天我又去,說明我就是昨天被轟出去的那個,公司讓我來推銷抽紗品,可我既不懂專業,又講不好日語,能不能給我指點指點。這裏我使用了“虛心”這塊敲門磚,“虛心使人進步”我終於進了一步,這次坐到了會客室的沙發上。他們指出我的樣品的不足,糾正了我的發音,介紹了抽紗業的行情。他們得意地當了一回老師,我虛心地做了一回學生。也由此陸續敲開了其他抽紗公司的門。他們後來成了我的最大客戶,我們一起多次去中國出差,率先嘗試著整集裝箱地從中國進口成匹抽紗花邊布。

 ある時、ある得意先が不得意になり、手工芸品の傘数本を返品したいので、取りに来てくれと言ってきた。私が広げて見ると、全く欠陥がない。しかし彼らの顧客が返品してきたので、なんとしても引き取ってくれと言われた。しかたなく、私は1束の傘の箱を抱えて出て来た。歩けないほど暑かったが、損を出したのに、どうしてタクシーになど乗れるだろうか。地面に蹲っていた私は突然思いついた。傘をこの場で売り払うことができるではないか。そこで、私は、この会社の近くのかんかん照りの地面の上に、一本一本私のレース工芸品傘を広げると、次々と女の人たちを呼び集めた。こうして輸入価格で返品された傘は、その場で、私の手によって小売価格で売れていった。まさに日本人がよく言う「転んでも決してただでは起きない」という言葉通りである。
  一次有家老客户不好说话了,有几把工艺伞非要退货,让我去取。我撑开一看根本没有毛病,可他们坚持要退,说是他们的客户退回来的。没办法我抱着一捆伞盒子出来了,大热天实在走不动,已经赔了钱哪敢再乘出租车?蹲在地上的我突然想到为何不可把它就地处理掉,于是我在他们公司不远的太阳地里撑开了我那一把把抽纱工艺伞,招来了一位位女士小姐,就这样进口价退回来的伞,又让我就地以零售价推出去了。正应了日本人常说的“摔倒了,决不空手爬起来。”
  一次有家老客戶不好說話了,有幾把工藝傘非要退貨,讓我去取。我撐開一看根本沒有毛病,可他們堅持要退,說是他們的客戶退回來的。沒辦法我抱著一捆傘盒子出來了,大熱天實在走不動,已經賠了錢哪敢再乘計程車?蹲在地上的我突然想到為何不可把它就地處理掉,於是我在他們公司不遠的太陽地裏撐開了我那一把把抽紗工藝傘,招來了一位位女士小姐,就這樣進口價退回來的傘,又讓我就地以零售價推出去了。正應了日本人常說的“摔倒了,決不空手爬起來。”

 今 私は東京の街頭でセールスマンを見るたびに、「不撓不屈」という成語を思い出すのである。
  现在,我每看到东京街上那些跑推销的,我就想到“不屈不挠”这句成语。
  現在,我每看到東京街上那些跑推銷的,我就想到“不屈不撓”這句成語。
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私が初めて契約してもらったコンテナを積んだ船はやっと海の向こうから現れてきた!
装载着我签约的第一个集装箱的货船终于从大海的那边出现了!
裝載著我簽約的第一個集裝箱的貨船終於從大海的那邊出現了!

1999年12月27日
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by tubomim | 2006-04-18 23:11 | 1999年 | Comments(34)
セールス2(推销2)
 大通りを行き来していた私は、今 しようとしている「雑貨の輸入」は、以前したことのある「設備の輸入」と同じ貿易であっても、決して「手馴れた仕事」でも、「簡単にやってのけられる仕事」でもないことにようやく気づいた。そのうえ、実際にこの仕事はアルバイトよりずっと難しい。1時間の仕事をして、1時間分のアルバイト料をもらうのは、足腰が痛むつらい仕事であっても、やましいところがなく心が安らかである。今はこんなにたくさんの給料をもらっているが、いったいどこへ行ってそんなに多くの仕事を探せばよいのだろうか。私はお金はいらない。仕事が欲しいのだ。私は仕事をしてお金を稼ぎたいのだ。来日後に稼いだ一円一円について、どうやって稼いだかを私は話すことができるし、その中にどれだけの汗と心血がつまっているかを知っている。そこには出ところのはっきりしない収入「灰色収入」はない。労せずして得ることは許されないのだ。それにしても、私はどこへ行けば……。
  在大街上徘徊的我才发现以前做的“设备进口”和现在做的“杂货出口”同样是贸易,但绝非“轻车熟路”、“小菜一碟”。而这份工作实际比打工难得多,打一个小时工,拿一个小时钱,虽腰酸背痛,可心安理得。现在拿了那么多钱,上哪儿去找那么多活?我不要钱,我要活,我要干活挣钱,来日本后挣的每一分钱我都能说出来历,知道里面凝聚了多少汗水和心血,这里没有灰色收入,不许不劳而获。可我上哪儿……
  在大街上徘徊的我才發現以前做的“設備進口”和現在做的“雜貨出口”同樣是貿易,但絕非“輕車熟路”、“小菜一碟”。而這份工作實際比打工難得多,打一個小時工,拿一個小時錢,雖腰酸背痛,可心安理得。現在拿了那麼多錢,上哪兒去找那麼多活?我不要錢,我要活,我要幹活掙錢,來日本後掙的每一分錢我都能說出來歷,知道裏面凝聚了多少汗水和心血,這裏沒有灰色收入,不許不勞而獲。可我上哪兒……

 デパートのショーウィンドーの前に座って悩んでいた私は日本語学校に向かって歩き出した。来日したばかりの留学生の多くが売り払いたい中国製品をいくつか持っていると考えたのだ。そこで、午後は、そうして借りてきたサンプルを担いで、商店にセールスに出かけた。当然、1件も商談は成立しなかった。しかし、私が飛び込んだ店は3軒に止まらなかった。夕方、私が内モンゴルの羊革のコートをはおり、山東省のレース、江蘇省のニットウェア、福建省の竹製品等を手に下げて事務所に戻り、業務報告をしたとき、周囲の雰囲気や部長の表情から、少なくとも今日はうしろめたい思いをせずに退社できるということがわかった。
  坐在百货店橱窗前发愁的我开始向语言学校走去,因为我想到刚来的留学生大都有几件准备出手的国货,于是下午我就扛上这些借来的样品去商店里推销,当然一件也没谈成,但我去闯了可不止三家。傍晚当我披着内蒙的羊皮大衣,提着山东的抽纱品,江苏的针织品,福建的竹制品……回到办公室汇报工作时,从周围的气氛和部长的表情中我知道至少今天可以心安理得的下班了。
  坐在百貨店櫥窗前發愁的我開始向語言學校走去,因為我想到剛來的留學生大都有幾件準備出手的國貨,於是下午我就扛上這些借來的樣品去商店裏推銷,當然一件也沒談成,但我去闖了可不止三家。傍晚當我披著內蒙的羊皮大衣,提著山東的抽紗品,江蘇的針織品,福建的竹製品……回到辦公室彙報工作時,從周圍的氣氛和部長的表情中我知道至少今天可以心安理得的下班了。
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by tubomim | 2006-04-16 22:56 | 1999年 | Comments(32)
セールス1(推销1)
 私は日本へ留学する以前、中国国内の大学を卒業後にエネルギー関係の輸出入総公司に配属された。そこでは、主に日本からの設備輸入業務に携わった。2~3年の勤務期間中に10回ほど日本へ来たが、来日時には、高級ホテルに泊まり、チャーターした車に乗り、いつも宴席に招待された。パリッとしたスーツを着た日本の営業マンが絶えず私にぺこぺこした。こうしたことはすべて私が買い手であり、売り手にとって神様であるからだと私にはわかっていた。
  来日留学之前,中国国内的大学毕业后,我分配在能源部门的进出口总公司,在那里主要负责从日本进口设备的业务,工作了2~3年就来了10次日本。访日时住高级宾馆,坐包车,总是吃宴会。穿着笔挺西装的日本营业人员不停地冲我点头哈腰。我知道这些都因我是买方,是卖主的上帝。
  來日留學之前,中國國內的大學畢業後,我分配在能源部門的進出口總公司,在那裏主要負責從日本進口設備的業務,工作了2~3年就來了10次日本。訪日時住高級賓館,坐包車,總是吃宴會。穿著筆挺西裝的日本營業人員不停地沖我點頭哈腰。我知道這些都因我是買方,是賣主的上帝。

 しかし、私たちはいつも輸入ばかりしてはいられない。一旦、私が売り手になり、今は売るためにこれほど骨を折っている日本の営業マンにセールスをする側になったとき、私はどれほど骨を折らなければならないことになるだろうか。そこで、買うことを担当していた私はいかにして売るかを研究・学習し始めた。私は「売れない時代の売る」(相当生意気なテーマだなと後に思った。ちなみに中国語の「生意」の意味は1、生気、2、商売)という文章を書いて日本語作文コンクールに出した。そして、思いがけないことにこのことがきっかけとなって、私は例の研究生(参照:http://tubomim.exblog.jp/1600017/)として日本の大学院でマーケティングを学ぶことになった。
  但我们不可能总是进口,一旦我成为卖方,向现在为卖而如此辛苦的日本营业人员推销时我将如何辛苦?于是负责买的我开始研究学习如何卖。我写了一篇文章《滞销时代的推销》参加日语作文比赛,没想到由此我作为前述的“研究生”(参照:http://tubomim.exblog.jp/1600017/)来到日本的研究生院学习市场学。
  但我們不可能總是進口,一旦我成為賣方,向現在為賣而如此辛苦的日本營業人員推銷時我將如何辛苦?於是負責買的我開始研究學習如何賣。我寫了一篇文章《滯銷時代的推銷》參加日語作文比賽,沒想到由此我作為前述的“研究生”(參照:http://tubomim.exblog.jp/1600017/)來到日本的研究生院學習市場學。

 しかし、本当にそのテクニックを学んだのは、日本の大学院を卒業して、就職後の実践活動であった。会社での初日、私は大企業の貿易部の雑貨課に置かれた私の新しい机の前に座り、気持ちを高ぶらせていた。なぜなら、中国製品を日本に輸入する腕前を見せる場と、正社員という身分を手に入れたのだから。それに、同期の日本人社員よりも多くの給料(外国籍社員手当てや住宅手当など)をもらい、もうアルバイトをする必要はなくなったのだ。私にはどのような仕事が割り振られるのだろうか。
  然而,真正学到本事的是在日本的研究生院毕业,参加工作后的实践中。第一天上班我坐在大企业贸易部杂货课我的新桌椅前又激动又兴奋。因为我既有了用武之地——把中国货出口到日本,又有了铁饭碗——正式职工的身分。并拿着高于同期日本职工的工资(外籍职工津贴及住房津贴等),再也不用打工了。将分配给我什么样的工作呢?
  然而,真正學到本事的是在日本的研究生院畢業,參加工作後的實踐中。第一天上班我坐在大企業貿易部雜貨課我的新桌椅前又激動又興奮。因為我既有了用武之地——把中國貨出口到日本,又有了鐵飯碗——正式職工的身分。並拿著高於同期日本職工的工資(外籍職工津貼及住房津貼等),再也不用打工了。將分配給我什麼樣的工作呢?

 同僚たちがみな次々と出かけて行くと、部長が私に向かって口を開いた。「君は何をしに来たのかね?」「貿易です。」「貿易は座っていてできるものなのかね。出かけて行って探すんだ。午前中に1社、午後に2社だ。10時から5時までは、事務所の中に姿を見せないように。5時以降に帰ってきて報告すること!」私はこうして事務所を追い出された。
  同事们都陆续出去了,部长开始叫我了。“你来干什么的?”“做贸易的。”“贸易是坐出来的吗?出去找,上午一家,下午两家。10~5点不要让我在办公室里看见你,5点以后回来汇报!”我就这样被赶出来了。
  同事們都陸續出去了,部長開始叫我了。“你來幹什麼的?”“做貿易的。”“貿易是坐出來的嗎?出去找,上午一家,下午兩家。10~5點不要讓我在辦公室裏看見你,5點以後回來彙報!”我就這樣被趕出來了。

上の「参照:アドレス」の部分を皆さんのブログと同じようにアクセスが出来るようにしたいのですが、何回やってもなかなかできません。何方が教えていただけばありがたいのですが。
P3-saitoさんへ:お蔭様で出来ました、本当にありがとうございます。
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by tubomim | 2006-04-14 23:18 | 1999年 | Comments(26)
四畳半2(四叠半2)
 私はまず薄緑色のカーペットを買って来ると、黄ばんだ畳の上に敷いた。それから百円ショップ(北京の8元ショップにあたる)で買ってきた緑色のイミテーションのつる草を四方の古びた木枠にかけた。壁の上方には一幅の額をかけ、窓前には花をかざり、畳に体を伸ばして、気持ちよく京劇を口ずさんだりした。隣人がテレビを見ている時、私は彼のテレビを聴く。テレビのない私の部屋がいつかオリジナル・ヒアリング・ルームなるとは、思いもしなかった。500円で木製の小さな電気スタンドを買い、狭い部屋を明るくして、夢を充満させた。4日分のアルバイト料で小さな「多目的」冷蔵庫も買った。それはドアを閉めれば「冷蔵」、ドアを開ければ「冷房」になった。家の中のどの品物にも私の心血が詰まっていた。ここは私の自力更生の楽園となったのだ。
  我先买来一块浅绿色的地毯,铺在发黄的榻榻米上,又用100日元店(相当于北京的8元店)买来的绿色吊叶遮饰在四周发旧的木框上。上方挂了一块匾,窗前摆了一盆花,躺在地上歇口气,得意地哼出了京剧唱腔。隔壁看电视,我就听电视,没有电视的小屋倒成了独特的听力室。500日元换回一盏木制小台灯,照亮了小屋,充满了幻想。4天工挣来一只“多功能”的小冰箱,关起门它管“冷藏”,打开门它供“冷房(冷气)”。家里的每一件东西都凝结着我的心血,这里成了我自力更生的乐园。
  我先買來一塊淺綠色的地毯,鋪在發黃的榻榻米上,又用100日元店(相當於北京的8元店)買來的綠色吊葉遮飾在四周發舊的木框上。上方掛了一塊匾,窗前擺了一盆花,躺在地上歇口氣,得意地哼出了京劇唱腔。隔壁看電視,我就聽電視,沒有電視的小屋倒成了獨特的聽力室。500日元換回一盞木制小臺燈,照亮了小屋,充滿了幻想。4天工掙來一隻“多功能”的小冰箱,關起門它管“冷藏”,打開門它供“冷房(冷氣)”。家裏的每一件東西都凝結著我的心血,這裏成了我自力更生的樂園。
 
 私はここで大学院の論文を書き上げ、多くの人に中国語を教え、日中友好事業の橋渡しをし、「読売新聞」に連載する文章を書いた。ある日、読売新聞社の小旗を掲げた2台の取材の車がゆっくりと「下町」に入り、私の小さなぼろ「アパート」の前に止まった。パシャパシャと私の写真を撮った時、周囲の人たちはフラッシュにつられて、ようやく目をしばたたかせながら、私という「外人」に目を向けた。
  我在这里完成了研究生的论文、我在这里教会了很多日本人中文、我在这里为中日友好事业牵线搭桥、我在这里写出了连载日本《读卖新闻》的文章……当挂着读卖新闻报社小旗的两辆采访车,徐徐驶进小巷,停在我的小破楼前左拍右照时,周围人才随着闪光灯眨着眼看我这个“外人”。
  我在這裏完成了研究生的論文、我在這裏教會了很多日本人中文、我在這裏為中日友好事業牽線搭橋、我在這裏寫出了連載日本《讀賣新聞》的文章……當掛著讀賣新聞報社小旗的兩輛採訪車,徐徐駛進小巷,停在我的小破樓前左拍右照時,周圍人才隨著閃光燈眨著眼看我這個“外人”。

 その後14年の間に、私は引越しを何度も経験した。当然、回数を重ねるごとに、移り住む家は大きくなり高級になっていった。しかし、引越しをするごとに、私のあの「四畳半」への懐かしさは増していった。結婚した時、私は夫と一緒にわざわざあの場所に出かけて行った。両親が来日した時も、案内した。息子も大きくなって物心がついてから連れて行った。苦労を思い出すためでなく、当時の楽しみを噛みしめるためなのだ。不思議なことに、あの頃すでにぼろぼろだったアパートは、いまでも健在である。階段をのぼると、あの「ぎしぎし」という板のきしむ音がまた聞こえた。私は体中の血が、感覚を取り戻したように湧き返るのを感じた。時に悩み迷う日には、自分がかつてそこで築いた輝きを思い出す。
  14年间我经历了多次搬家,当然越搬越大越高级。可越搬越想我那“四叠半”。结婚时我曾和丈夫专程去过。父母来日时,我又陪他们去过。儿子长大懂事后,我也带他去过。我不是去忆苦,而是去思甜。奇怪的是当年已是风烛残年的它,却依然健在。踏上楼梯我又听到了那“吱吱”作响的木板声,我觉得身上的血在涌动,似乎又找到了感觉,终日彷徨的我会想起自己曾经在这里创造过辉煌。
  14年間我經歷了多次搬家,當然越搬越大越高級。可越搬越想我那“四疊半”。結婚時我曾和丈夫專程去過。父母來日時,我又陪他們去過。兒子長大懂事後,我也帶他去過。我不是去憶苦,而是去思甜。奇怪的是當年已是風燭殘年的它,卻依然健在。踏上樓梯我又聽到了那“吱吱”作響的木板聲,我覺得身上的血在湧動,似乎又找到了感覺,終日彷徨的我會想起自己曾經在這裏創造過輝煌。
      
 今や一戸建てを持つようになったが、それを自慢する気にはならず、常にあの「四畳半」での往年のほこりばかりを話したくなるのである。
  真的,如今我有了“独户小楼”却自豪不起来,偏偏爱提那“四叠半”里的当年勇。
  真的,如今我有了“獨戶小樓”卻自豪不起來,偏偏愛提那“四疊半”裏的當年勇。
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時の流れに


1999年12月10日
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by tubomim | 2006-03-29 14:08 | 1999年 | Comments(24)
四畳半1(四叠半1)
 
時刻は只今3月26日00:00分になりました。3月26日はなんの日?何の日でもありません。ただ単に20年前に私が日本に上陸した日なのです。ここで数年前に書いた来日当初の文章を載せさせていただきます。 

 日本の和室の大きさは一般的に畳の枚数で数える。「一枚」は日本語で「一畳」という。普通一番小さい部屋は「四畳半」で、約7㎡あまりあろう。「四畳半」なんと親しみ深い言葉だろう。それは、私たち多くの留学生の日本における出発点である。14年前、私は単身で東京にやって来た。とことん歩き疲れ、冷たい眼差しにさらされて、ようやく自分のものとなる四畳半を見つけた時、うれしさのあまり、私は北京の家族に電話をかけて大声で言った。「なんと日本にも私の場所があるのよ。たったの四畳半だけど、そこで自由気ままに大の字になって寝られるのよ。日本で最初の私の家になるのよ。」
  日本和式房子的大小,一般以榻榻米的张数计算。“一张”日语中称为“一叠”,一般最小的房子是“四叠半”约为7平米左右。“四叠半”多么亲切的字眼,它是我们大多数留日学生在日本的起跑点。14年前,我只身来到东京,当我踏破铁鞋,遭尽白眼,终于找到属于我的那个“四叠半”时,激动得我打电话大声告诉国内家人:“在日本国居然有块地方属于我,虽然它只有四叠半,但我可以在里面无拘无束,四仰八叉。它将是我在日本的第一个家。”
  日本和式房子的大小,一般以榻榻米的張數計算。“一張”日語中稱為“一疊” ,一般最小的房子是“四疊半”約為7平米左右。“四疊半”多麼親切的字眼,它是我們大多數留日學生在日本的起跑點。14年前,我隻身來到東京,當我踏破鐵鞋,遭盡白眼,終於找到屬於我的那個“四疊半”時,激動得我打電話大聲告訴國內家人:“在日本國居然有塊地方屬於我,雖然它只有四疊半,但我可以在裏面無拘無束,四仰八叉。它將是我在日本的第一個家。”

  私のその「家」は、東京の「下町」にある、(ちょうど北京の前門、菜市口近辺にあたるだろうか)余命幾ばくもない二階建ての小さいな「アパート」だった。私は、一階の一番奥に住んでいるのが大家さんだということだけは知っていた。なぜなら、毎月あそこへ家賃を渡さなければならなかったからだ。大家のおじいさんは毎回お金を受け取れるだけの隙間しかドアを開けなかった。私はいつもそれを見て日本国の門戸を思い浮かべた。このドアは「外人」とはどんなものなのかを私に物語っていた。日本人は普段、外国人を「外人」という。当時不動産屋の張り紙には「ペット」、「水商売」、「外人」不可と明確に書いてあった。今国情、相場も少し変わったようで、窓に今度は「ペット」、「水商売」、「外人」可と親切に書き換えてある。しかし態度が変わっても感情は変わってないことも見て取れる。
  我的这个家在东京都内的市井小巷(大概相当于我们北京过去的前门、菜市口一带),一座风烛残年的木板二层小楼。我只知道一层最里面住的是房东,因为我每月要把房钱交给他,他每次也就只开一个能够把钱收进去的门缝。我常常由此想到日本的国门,这个门告诉我什么是“外人”。日本人总爱把外国人叫做“外人”,那时房地产租赁公司的窗子上,都明确地写着“宠物”、“陪酒”、“外人”不可。现在国情、行情似乎都变了,窗子上又都热情地写着“宠物”、“陪酒”、“外人”可。不难看出态度变了那感情也难变。
  我的這個家在東京都內的市井小巷(大概相當於我們北京過去的前門、菜市口一帶),一座風燭殘年的木板二層小樓。我只知道一層最裏面住的是房東,因為我每月要把房錢交給他,他每次也就只開一個能夠把錢收進去的門縫。我常常由此想到日本的國門,這個門告訴我什麼是“外人”。日本人總愛把外國人叫做“外人”,那時房地產租賃公司的窗子上,都明確地寫著“寵物”、“陪酒”、“外人”不可。現在國情、行情似乎都變了,窗子上又都熱情地寫著“寵物”、“陪酒”、“外人”可。不難看出態度變了那感情也難變。

  当時アパートの住人は、私一人が「外人」だったし、私一人が女だった。たぶん出稼ぎの単身者が多かったのだろう。玄関に脱いである、踵を踏んづけた靴から判断できた。アパートにはお風呂もなかったし、トイレだって男女共用になっていた。長いこと、寝る時には、本箱をドアにあてがい、包丁を敷布団の下に潜ませていた。薄い木の扉のふちに細くて小さな鉄の棒を差し込んでひねるだけのものが錠前だなどと、どうしても信じられなかったのだ。まもなく、幸い、隣に人が引っ越して来た。毎晩聞こえてくる彼のイビキのおかげで、心強くなった。そのうち、私はそのイビキに慣れて「平安無事だよ…!」という拍子木のリズムとして聞くようになった。たまたまそのリズムが聞こえないと、どうしても「周辺有事」と感じてしまい、夜通し安心することができなかった。
  小破楼里只有我一个“外人”,也只有我一个女人。从楼门口脱下的那些踩倒后帮的鞋判断,大概住的是些临时进城打工的单身汉。楼里没有浴室,只有一个男女共用的厕所。很长一段时间我都是用书箱顶住门,褥子下放着菜刀睡的。因为我怎么也不相信薄薄的木门板边上插着的那个细细的小铁棍,就是铁将军(頑丈な錠前)。多亏隔壁搬来了邻居,他那每晚的鼾声给我壮了胆,后来我习惯把他的鼾声当成“平安无事喽!……”的梆子声。偶尔听不到梆子响,总觉 “周边有事”,彻夜不得安生。
  小破樓裏只有我一個“外人”,也只有我一個女人。從樓門口脫下的那些踩倒後幫的鞋判斷,大概住的是些臨時進城打工的單身漢。樓裏沒有浴室,只有一個男女共用的廁所。很長一段時間我都是用書箱頂住門,褥子下放著菜刀睡的。因为我怎么也不相信薄薄的木门板边上插着的那个细细的小铁棍,就是铁将军(頑丈な錠前)。多虧隔壁搬來了鄰居,他那每晚的鼾聲給我壯了膽,後來我習慣把他的鼾聲當成“平安無事嘍!……”的梆子聲。偶爾聽不到梆子響,總覺 “周邊有事”,徹夜不得安生。
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by tubomim | 2006-03-26 00:00 | 1999年 | Comments(26)
白髪と老眼鏡(白发与花镜)
 
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 歳月が過ぎるにつれて、私の頭のてっぺんに白髪がひそかに這い上がっていた。とても気になるので、徹底的に抜いてしまおうと心に決めた。ところが、白髪はよりによって自分だけが見えない後ろよりの部分に直立している。
  随着岁月的消失,白发已悄然地爬上我的头顶。我很在意,决心要斩草除根。而它又偏偏挺立在只有自己看不见的后头顶。
  隨著歲月的消失,白髮已悄然地爬上我的頭頂。我很在意,決心要斬草除根。而它又偏偏挺立在只有自己看不見的後頭頂。


 今日は、夫が休みで家にいたので、手伝ってくれるよう頼んだ。「あれ?君にも白髪が生えたのかい?」夫に髪をなでられながら、私はしかたなく頭を彼の膝の上に横たえた。ふと、夫が身体の向きを変えて何かを手にとるのに気づいた。それと同時に、「パチッ」と眼鏡ケースの開く音がした。私が身体の向きを変え、起き上がって見ると、夫は新調したばかりの老眼鏡をかけていた。「なんだあなたも…」私は笑った。私たちは二人とも涙がでるほど笑った。そのまま老眼鏡をかけて、夫は私の白髪を抜いてくれた。たしかに私たちはもう若くはない。
  今天丈夫在家休息,于是请他帮忙。“哟?你都长白发啦?”他抚摸着我的头发。我无奈地把头枕在他的大腿上。只觉得他转过身去够什么,随之就听见“啪”的一声开眼镜盒响。我转身坐起,看着他把刚配好的花镜戴上,“原来你也……”我笑了,我俩都笑了,笑得流出了泪。就这样他戴着花镜为我摘白发,的确我们都不再年轻。
  今天丈夫在家休息,於是請他幫忙。“喲?你都長白髮啦?”他撫摸著我的頭髮。我無奈地把頭枕在他的大腿上。只覺得他轉過身去夠什麼,隨之就聽見“啪”的一聲開眼鏡盒響。我轉身坐起,看著他把剛配好的花鏡戴上,“原來你也……”我笑了,我倆都笑了,笑得流出了淚。就這樣他戴著花鏡為我摘白髮,的確我們都不再年輕。


 若いときも、幸せな気分で彼の膝に頭を横たえたことがあった。私たちは二人の未来にたくさんの夢を抱いていた。今、私はまた幸せな気分で彼の膝に頭を横たえている。私たちはお互いの白髪と老眼鏡に向かい合っている。将来、私は白髪など気にしなくなるかもしれないし、彼は老眼鏡をかけてもはっきりものを見ることができなくなるかもしれない。そのときでも、二人が同じポーズで、「今のように幸せで心安らかにいられたら」とただそれだけを願っている。
  年轻时我也曾幸福地枕在他的腿上,我们对共同的未来充满幻想。现在我又幸福地枕在了他的腿上,我们面对着彼此的白发和花镜,将来也许我不再在意白发,也许他再戴上花镜也看不清。我只希望我们还是这个姿势,还能拥有这份幸福与安宁。
  年輕時我也曾幸福地枕在他的腿上,我們對共同的未來充滿幻想。現在我又幸福地枕在了他的腿上,我們面對著彼此的白髮和花鏡,將來也許我不再在意白髮,也許他再戴上花鏡也看不清。我只希望我們還是這個姿勢,還能擁有這份幸福與安寧。
1999年5月30日
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by tubomim | 2006-02-13 10:15 | 1999年 | Comments(38)
即興童謡
 5歳の息子しばらく北京の幼稚園に通った。先日に帰国して日本人のパパに中国の童謡を教えてくれた。すご~い! 2ヶ月の滞在なのにわが息子がすらすらと中国の童謡を歌えるなんて、たまに「自分でも作れるの?」と聞いたら、雨の中の庭をしばらく眺めると、次の「わけぎ」が誕生した。
 その後誰も想像つかなかったことにこれがきっかけに一気に夢中になった。ここで幾つか彼の即興作品を記録しておく。あの土から出てきたわけぎと同じ、まだ幼いけど、確かに毎日成長している。多分、彼の成長の中のほかの趣味と同じ、しばらくしたらなりを潜め、姿をけすことになるだろう。
 でも父親の私は息子の子供時代のエピソードとして記録してあげたい。中国語で作った童謡だが、日本人の私にとってはただきれいに聞こえるだけで、意味はあまりわからない。また息子に頼んで日本語に訳してもらわなくては……            
                                        (父親)


小葱 (わけぎ)
小葱小葱别害怕, (怖くないよ、わけぎ、)
大雨现在哗哗下, (雨はザーザー降っているけれど、)
他能为你洗衣服, (雨は服を洗濯してくれるし、)
还能让你喝饱水, (水もいっぱい飲ましてくれる、)
太阳公公一出来, (お日さまが出てくると、)
就会给你晒衣服。 (服を乾かしてくれる。)
1999年10月21日5歳5ヵ月


自动售货机      (自動販売機)
可口可乐你真好, (コカコーラは賢いね、)
我一按你就出来, (ボタンを押すと出てきてくれる、)
什么时候来买你,  (いつ買いに来ても、)
你都没有「売切れ」。 (売り切れにはなっていない。)
1999年11月3日5歳6ヵ月


打架       (けんか)
爸爸妈妈真奇怪, (ママもパパもおかしいね、)
刚才还是好好的, (さっきまでは良かったのに、)
现在突然怎么了? (いまはいきなりどうしたの、)
人为什么要打架? (人はどうしてけんかをするの。)
1999年11月20日5歳6ヵ月


电车      (電車)
电车电车你真好, (電車はとても賢いね、)
每天拉着我们跑, (みんなを乗せて毎日走る、)
快跑快跑快快跑, (急いで、急いで走ってね、)
上班时间就要到。 (出勤時間におくれるよ。)
1999年11月20日5歳6ヵ月


「風呂」 (お風呂)
「風呂」「風呂」你真好, (お風呂もとても賢いね、)
每天累了洗个澡,    (疲れたら毎日お風呂に入り、)
又吃又喝又聊天,    (食べたり飲んだり話したり)、
啊~「風呂」就像小宾馆, (あ~お風呂はまさに旅館だね、)
我们累了洗「風呂」,   (みんなお風呂に入るけれど、)
「風呂」累了怎么办?  (お風呂が疲れたらどうするの、)
我来给你搓搓澡,    (僕が君を洗ってあげるよ、)
「風呂」「風呂」「ご苦労」 (お風呂お風呂ご苦労さん、)
どうも お疲れ様でした!(お疲れ様でした。)
1999年11月24日5歳6ヵ月


传真 (ファックス)
传真一响信就来, (ファックスが鳴ると手紙が来る、)
一个晚上响三遍, (一晩で三回も鳴っていたよ,)
都是给我妈妈的, (全部お母さん宛だった、)
小象也想收一个。 (小象も一個もらいたいな。)
1999年11月24日5歳6ヵ月


天鸟 (白鳥)
雨天河水多, (川の水は雨の日に増える、)
处处洗天鹅, (白鳥はあちこちで水浴びだ、)
低头藏起来, (頭を下げると水に隠れ、)
举头飞上天。 (頭を上げると空へ飛ぶ。)
2000年11月19日6歳6ヵ月


回转寿司    (回転寿司)
转盘象轨道, (レーンはレールみたいだね、)
盘子色不同, (お皿の色は違うけれど、)
看色来交钱, (その色を見てお金を払う、)
钱多肚子饱。 (お金が多いほどお腹もいっぱいになる。)
2000年11月19日6歳6ヵ月

2000年12月1日
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by tubomim | 2006-02-02 00:12 | 1999年 | Comments(9)